金光教は、「取次(とりつぎ)」を通して、神と人、人と人、人と万物が「あいよかけよ」で共に助かり立ち行く世界の実現をめざす宗教です。
「あいよかけよ」とは、神と人とのあるべき関わりを示した言葉で、人は神の願いを受け、真実な生き方を求めて立ち行くことになり、神もまた、人の真実な生き方によって、その働きを人の世に現すことができ、神も助かるということを表しています。神と人との「あいよかけよ」を基本にして、人と人、人と万物との間にも、同様の「あいよかけよ」が成り立ちます。人間の助かりをどこまでも願われる神様のお働きに気づき、日常生活の中で、神様とともに生き、身をもって神様のお働きを現していく生き方を、金光教では日々求めています。
金光教祖について
教祖金光大神様は、現在の岡山県浅口郡金光町占見の農家にお生まれになりました。9月29日夕刻のことで、幼名を香取源七といわれます。
占見は、金光教本部から西北西に二キロほど行った所にある、静かな村落です。小さいころの教祖様は、父親に背負われて、よく近在の神社やお寺に参られたと伝えられています。
12歳の時、占見村から一村隔てた大谷村(現在、本部がある所)の川手粂治郎様、いわ様夫妻のもとに養子に入られました。当時の農家では、長男以外は、奉公働きに出るか、他家に養子入りするか、あるいは一生をその家で使用人扱いされて送るかの道があるだけでした。
養子入りを機に、名前も川手文治郎と改められました。
13歳から14歳にかけて、大谷村の庄屋だった小野光右衛門さんの所に、手習いに通われました。光右衛門さんは地方にはまれな学識者で、その感化はその後の教祖様の大きな財産となったのでした。
教祖様はあまりお丈夫ではなかったようで、後にご自身がその人生を振り返って記された自叙伝的な書『金光大神御覚書』には、しばしば腹痛で苦しまれ、薬を飲まれたり灸による治療をされたが、なかなかよくならなかった、という記述が見えます。それでも勤勉に働かれ、かわら屋の燃料の小枝を人より多く運ばれたり、道路や池の工事などの村の共同作業にも進んで参加され、村人の信頼を厚くされていかれたのでした。
そうした中、養父母に子どもが誕生し、「鶴太郎」と名づけられました。教祖様が17歳の時のことです。
しかし、その喜びもつかの間、鶴太郎様は腹痛が高じてけいれんを起こし、わずか6歳で亡くなったのです。
その悲しみの深さからでしょうか、1カ月もたたないうちに義父が痢病に倒れ、わが子の後を追うように他界されました。
義父の死によって、教祖様は23歳で家督を継がれることになり、姓を「赤沢」と変えられます。改姓は義父の遺言によるもので、村で由緒のある川手姓を、他村から来た者が名のり続けることへの配慮がうかがえます。この年、同じ村の古川とせ様を妻に迎えられました。
教祖様のお働きぶりは、村人の注目を集めました。
教祖様が養子として来られた当時の大谷村は、戸数が100戸余り、人口約470人ばかりの小規模の村でした。家督を継いだ時、養父から譲られた田畑は約790坪。それが20年後には2倍近くに増え、村で上から10番目ほどに位置するまでになりました。
この間、ふろ場と便所の新築、門納屋の建築、母屋の改築と、自宅の普請に精力的に取り組まれました。また、勤勉で誠実な人柄から村内での信望も厚く、村の税金を藩の役所に納入する役目や庄屋のお伴など、村の公用にも重用されました。
その一方で、家族に暗い影が差しはじめます。結婚後2年半を経て、ご長男が誕生しますが、わずか4歳で亡くなられます。その2カ月後にご次男が誕生し、この後、さらに3人の男子と3人の女子に恵まれますが、やがてご次男とご長女が病死し、加えて大切な飼い牛が2頭病死するという悲しみに見舞われたのです。
教祖様の心中には、一連の自宅の建築が、どこかで神様へのご無礼になっていたのではないかという不安が広がっていました。
1855年、教祖様は42歳の大厄を迎えられました。年明け早々、教祖様は厄晴れ祈願に、近隣の氏神様や、吉備津神社など著名な3つの社寺に参って、厄除けの祈願をされたのでした。
ところが、4月下旬になって、体に不快を感じて病床に伏すこととなり、やがて湯水ものどを通らなくなってしまいました。病気は「のどけ」(扁桃腺周囲膿瘍)で、医師が「九死に一生が難かしかろう」と告げるほどの重体でした。
親類が寄り集まり、神仏に病気平癒の祈願を凝らす中、義弟の古川治郎さんが神がかり、「建築・移転につき、神に無礼いたしておる」と告げました。これに対して、教祖様は重体の身を押して、「どの方角へご無礼つかまつりましたか、凡夫で相分かりません」と、知らず知らずの無礼をわびられたのです。
日柄方角に細心の注意を払って建築に取り組んでこられただけに、当時の常識では「無礼はない」と抗弁すべき場面でしたが、教祖様は自らの非を心からわびられたのでした。神様の促しで、はいながら神棚の前に進み出た教祖様に神様は、「心徳をもって神が助けてやる」と告げられました。
これを境に、「神と人とあいよかけよで立ち行く世界」が開かれていくことになったのでした。
42歳の大患をとおして、何事も神様の仰せに従って生活が進められるようになりました。そうした中で、1859年11月15日、神様から「難儀をしている人たちを取次ぎ助けてほしい」というお頼みがありました。教祖様はそれをお受けになり、自宅を広前として取次に専念されることになりました。神様からのこのお頼みを「立教神伝」と呼び、金光教の始まりとしています。
教祖様のもとには、難儀に苦しむ人々が次々と訪れるようになりますが、農民であった者が神職まがいの行為を始めたことで、妨害や迫害を受けるようになりました。教祖様はそうした試練を受けながら、神様への一心をいっそう確かなものとされたのでした。
やがて、江戸から明治へと時代が変わり、世の中の仕組みも大きく変化していきました。1868(明治元)年には、生神金光大神のご神号が神様から下がりました。また、「天下太平、諸国成就祈願、総氏子身上安全」の幟(のぼり)を家の前に立てて、このことを日々祈念されました。
その一方で、布教資格を持たなかった教祖様に国家の監視の目が及ぶようになり、1873年、戸長(村長)の命でついにご神前を取りかたづけなければならなくなってしまいました。
教祖様は、控えの間で一人静かに神様と向き合われました。神様は、「力落とさず、休息いたせ」と、教祖様をねぎらわれます。この時、教祖様は60歳になっておられました。
神前撤去から20数日が過ぎたころ、「金光大神生まれかわり」と、神様からお知らせを頂かれ、続いて、信仰の要点を端的に表現した「天地書附」が、お知らせによって生まれました。さらには、天地金乃神様の神性と、人間の末々かけての繁盛と神と人とが共に立ち行く世界を出現させるために、教祖様は神様から差し向けられたことが、明らかにされたのでした。
約1カ月後、布教活動の再開を内々に許されましたが、警察の干渉はその後も続きました。しかし、神様から差し向けられた者としての使命を確信された教祖様は、「金光が世界を助けに出た」「この方は、世界をこの道で包みまわすようなおかげが頂きたい」という大願を表明され、その願いを実現していこうとする弟子たちが育っていきました。
教祖様は、1883年10月10日未明、70歳でご帰幽になられました。教祖様がご帰幽間近まで記しておられた『お知らせ事覚帳』の最後は、次の言葉で締めくくられています。
「人民のため、大願の氏子助けるため、身代わりに神がさする、金光大神ひれいのため」
教祖様の前半生は、農民としてまれに見る成功者だった。養父から継いだ田をさらに増やされ、短期間で村有数の農家になられた。
田の増やし方は非常に戦略的で、一心。飢きんが起こった時に、田を買われている。しかも、買った田をすぐに質に入れ、購入資金を作られた。ふつうなら守りに入る時に、攻めておられる。
もし、現代に教祖様が生きておられたら、経営者として相当に成功されたことだろう。教祖様が養子に入られた理由は、養家を繁盛させることだったから、十分に目的を果たされている。
しかし、相次いで子どもを亡くされ、42歳で自分も大病にかかられる。家が繁盛しても、死に絶えては元も子もない。幼少から信心深かった教祖様はここで、神様への無礼に気づかれる。
教祖様の生き方は、それまでの出世繁盛路線から、「人助け」を中心にした生き方へと変わられた。この後、参拝者の利便のため、次々と田畑を売られるなどして、当時の村の年間経費の三分の一に当たる大金を用意。宗教施設(東長屋)やトイレなどを建てられたが、田畑を売ることは、以前の教祖様なら考えられないこと。
46歳の時に、自宅で人助けに専念するため、農業を止められる。皆で分担する水路管理などの仕事にかかわらなくなることも意味し、当時としては村八分も覚悟のうえ。相当のことだったと思う。
それまで「信心文さ」と村民から慕われていたが、この後、「金神だぬき」と呼ばれ、村内で異端者的な存在になられる。しかし、参拝者は増えた。最盛期は人口約500人の村に、年間延べ1万5000人以上の人が押し寄せた。
参拝者の中には、伝染病の人や差別されている人も多く、村人は嫌ったが、教祖様はだれでも「神様の氏子」と見て、受け入れられた。
教祖様は、実意丁寧で何事も一生懸命に取り組まれる性格。目的を果たすためには、努力を惜しまれない。「宮」の建築も、こうした態度で何度も挑戦されたが、いつも障害が起きて、成就しなかった。この体験から、何事も神様の時節を頂かなければ、かなわないことを悟り、「先を楽しむ」という世界を会得された。
教祖様の夢は、人助け。布教の公認を得るとか、この道を世界に広げる願いはあられたが、何よりも「人が助かりさえすればいい」と考えておられた。
同時代に、「世直し」を主張した宗教は多かったが、教祖様はあくまでも一人ひとりの救済を実践された。社会への鋭い批判の目は持たれていたが、個人を助けることで、着実に社会を変えようとされたのだと思う。