春日部教会(旧称:烏森小教会所→西久保教会→虎ノ門教会)は、明治17年、東京の新橋烏森にて伝道に当たられた初代教会長・御園ヤエ師に始まります。
御園先生は、安政2年、千葉県荒老村に生まれ、容姿に優れ、才気の高さから井上河内守の屋敷で武家奉公をされていました。
そうして十八歳の時、嫁入りを理由に河内守より暇を貰い上総に帰郷。知人の紹介により大阪西区京町堀に住む金物商・田中庄吉氏と結婚します。
明治14年4月23日、夫・庄吉氏が脱疽病の患いから立売堀の初代白神師の広前に初参拝します。その夫より御教えを伝え聞き、大いに感ずるところがあり、ヤヱ師自らも子宮癌に難渋していたので人手を借りて立売堀広前に初参拝し、「天地金乃神・教祖の神は、吾々の親神様なり。一切のものは親神様の御差配なり」との熱烈、懇切な御理解に感動され、白神師による渾身の日切りの御祈念により、わずか4日で子宮癌平癒のおかげを頂かれました。
それより田中夫妻は初代白神師の下で信心に励み、やがて明治16年10月6日、京都市内に御金神社設立認可を受け布教をはじめますが、信念の上から夫と合わなくなり離婚し、郷里へ帰ることとなりましたが、その帰る道すがら、難儀に苦しむ人等が次々と助かる働きが生まれ、明治17年2月2日、新橋烏森で単身布教を始められることになりました。
以後、自ら打ち込んで「人を助けて己が助かる信心」に励まれました。しかし教団組織成立以前の事であったため、国家の弾圧があり、伝道は困難を極めましたが、「いずれに所属しても心さえ誠であれば、人は助かります。」との三代金光様のお言葉を励げみに御用に専念し、明治40年、烏森小教会所として認可を受けられました。
その後、芝区西久保に移転し西久保教会と改称。以後、明治・大正・昭和に至る長い激動の時代、御用が受け継がれ、関東大震災、強制疎開、戦災などに遭いながらも、その都度復興のおかげを頂き、やがて住居表示により虎ノ門教会と改称され、平成18年には「マッカーサー道路(環状第二号線新橋・虎ノ門地区第二種市街地再開発事業)」建設のため、埼玉県春日部市の現在地に教会を移転し、今日に至っている。
先日、先生に金光新聞でのご関心を伺いました高橋章浩です。セミナー「遺る言葉を考える」について10月21日付にて広告を出させていただきました。初めての試みでもあり、また自主活動としての取り組みでありますので、貴紙に紹介していただくことの是非がおありかと存じます。ご検討の上でご紹介いただけるようでありましたらよろしくお願いいたします。
なお、この取り組みにつきましては浦和教会の岡本啓一郎弁護士、銀座教会のかたのご助言などをいただいております。
高橋章浩様
ニュース記事として掲載は可能です。
取材に伺う予定にしておりますので、よろしくお願いします。
きのうは取材にお越しいただき、ありがとうございました。時期がら要務ご多用のところ
すみませんでした(春日部教会のホームページは非常にいいですね。初代先生のことなどの内容だけでなく、見やすさもレイアウトのセンスもとても良いと(前からですが)思っておりました)。
高橋章浩です。過日は「遺す言葉を考える」セミナーにご取材いただき有りがとうございました。その記事を金光新聞の今週号にて掲載してくださり、掲載紙もご送付いただきました。丁寧な記述をしてくださり、お読みいただいた方にもその要旨がよく理解していただけたと思います。改めまして深謝申し上げます。