今朝の御教え

今朝の御教え(「荻原須喜の伝え1・7~8」より)

さて、その翌年明治七年になっても子供ができぬので、「これも金光様に頼んだら授けてくださるかも知れぬ。一ぺん、二人連れのうて参ろう」と夫婦連れで旧四月十五日に参詣して、「金光様、私らには日夜、身に余るおかげをいただきまして、このうえありがたいことはありませぬが、まだ子供ができませぬので子供を授けていただきとうござりますが」とお願い申しあげたところが、金光様が、
「うん、それは神の方で、はや授けようと思うてござる。今年の九月を楽しんでおるがよい」
と仰せられた。そのとおり、その年九月にとまって、できたのが源兵衛とて、今年(大正一二)四十九歳になる総領息子である。(荻原須喜・7)

ますます、ありがたしと信心していたが、明治八年九月に参詣した時に、金光様が、
「丑の年(須喜)、親のもちかえはできぬものじゃからのう。親を大切にしなさいよう。来年の四月二十一日には丑の年(利喜三)が安心のおかげをいただくぞ」
と仰せられた。そこで、「父も来年の四月二十一日までの寿命かな。大切に大切に」と家内中その心を忘れず、何かと注意してできるだけ大切にしていたが、その年も過ぎ、正月も二月も三月も過ぎ、四月になり、四月二十一日になっても何の変わった様子もなかった。「金光様の仰せに百に一つの間違いもないのだが、このことばかりは違うておった」と、その朝、夫婦語り合うていたが、利喜三は村内の高原松之助さんと大話をしながら、裏の菜園で種をまいていた。それがすんだのが午後二時ごろで、松之助さんは帰り、利喜三は家に入って、「お須、少し気分が悪いから、お茶を一杯持って来てくれ」と言った。私は聞くより早く、宙を飛んでお茶を持って行ったが、そのお茶を飲む間もなく、ううんと後ろへそって、そのまま亡くなった。
先に源兵衛お授けの時も少しも違わずお授けになり、この度、利喜三のお引き取りも一分一厘違わぬが、ただ単に違わずに前からわかるだけではない。神が人を造りも殺しもし、あるいはまた病気も差し向け、快癒もさし、神が自由自在にしてござることを思わしていただく。(荻原須喜・8)