明治十二年旧五月、田植えあがり(田植えじまいの休み)に九人連れにて大本社へお参りさしていただき、雨は何日ともなしに降り続きておりました。水江、片島の橋は、みな、水でつかっていました。二つ目の片島の橋を渡る時、人が大勢見物して、「あれは命知らずじゃわい」と騒いでおりました。「橋が危ない、危ない」と申しました。九人とも無事に渡りました。通るや否や、橋はばったり落ちました。見物人は、ときの声をあげたごとくであった。
その九人の中に一人、たいへん立派な衣服を着ておる人があった。雨にぬらしたのをたいへん悔やんでおった。そして、大本社へ着き、お参りさしていただきました。すると、金光様が、「このしけにお礼のできる氏子は、一心が届くわいの。また、神にお礼をするのに着物をいたわるようなことではいかぬわいのう。神にお礼をさしていただくたんびに、こうばつほ(新調の着物)を着て参るようなおかげをいただかねばならぬ」
と申されました。私は恐れ入りました。「神様じゃ。お願いせんのにあのとおりにおっしゃってくださる。ありがたや」と恐れ入りました。道中にて連れが言うたことを、まるっきり知ってござる。実に恐れ入りました。
そして、私は、心の内で、大水に子供と年寄りをおいて来ておることゆえ、わが家のことを心配しておりました。すると、金光様が、
「丑の年、十里が末へ来てのう、うちのことを心配しても、何にもならぬわいの。神様におくり合わせを願いておけば、心配はないわいのう」
と申されました。私は、まことに恐れ入りまして、安心してお願いいたしておりました。
そして明くる日、帰りに金光様へ、「帰らしていただきます」とお願いいたしましたら、金光様が、
「らくじゃわいの。神にすがりて帰れば、さしつかえないわいの」
と申されました。下向いたしまして、片島まで帰りました。橋は落ち、舟止めになり、巡査が出張りしておりました。九人のうち一人は少し遅れて出て、八人だけでありました。茶店で休んで、みなみなお願いをいたしますのに、だれのお願いにも「急げ、急げ」とのみ、お知らせあり。(7)茶店の主人を頼みしところ、当たり前では舟が出されぬから、その舟を出すのに、「水見舞いに行く舟である」と申して、出すことになりましたが、「金はどのくらいであります」と申しましたら、「十円でなければ行かぬ」と申しました。「それでは、まことに大したお金。われわれは、神様のおかげをいただかねばならぬつまらぬ者ゆえ、そこのところはなんとか辛抱してくれんか」と申し、主人がいろいろと骨を折り、わずか四円にて渡ることになりました。そして、そこは無難に渡りました。それより、水江へ到着いたし、そこの渡しも主人が骨折り、みやすく、わずかの金にて渡りました。
それより撫川辺へ来るとたいへんの水にて、太もも辺までつかるのを一人ずつ背セナをつかんで行き、庭瀬ばなへ来ると、はや、日は暮れるし家はなし、みなみな当惑して、いかがいたせばよからんと思案しておりましたところが、向こうの方より一そうの漁舟が来た。「あなた方は金神参りのお方と見受ける。見れば年寄りの方もあるが、早くお乗りなされ」と申しました。(10)その時の八人の者のうれしさはどうでありましょうか。舟へ乗りて、みなみなまことに泣いて喜び、神様にお礼を申しました。その助けてくれた人の姓名をたずねました。平野の増治という人で、「撫川へ水用意(洪水時の必要品)を買いに行き、帰り道見れば、まことに年寄りたちがおらっしゃるからお乗せ申しました」と申し、その人が白石まで送りてくれました。
それより水も少なくなり、道中無難にてわが家へ帰りました。八人の連中はそれぞれ教えのままに帰らしていただきまして、まことに恐れ入りました。そして、一人遅れた人は、明日になれば水が減ると思うて、一同と帰らなかったが、その後たいへんな水にて、一週間かかってようやく帰りました。われわれは教えのままにおかげをいただきまして、恐れ入りました。わが家へ帰りてみれば、金光様の仰せのとおり、わがおるよりも結構なる水用意をしてくれてありまして、近所の人が来てくれて、とりかたづけてありました。水は座板まで来ておりました。その時の私の喜びは大きく、実に恐れ入りました。
その後、水もひくし、まことに喜びに喜びで、金光様へお礼参りをさしていただき、八人の連中として平野の増治様の所へもお礼に行き、金光様に一々このわけをお届けして御礼を申しあげました。金光様は、
「平野の増治という人は、そんなに一心のある人ではないが、神のおくり合わせであるわい」と申されました。その後引き続き、毎月、月参りさしていただきました。
今朝の御教え(「青井サキの伝え・2」より)