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道別 第15號 御園八重子刀自

道別 第15號に掲載されておりました御園先生への追悼文を数回に分けて転載いたします。
旧仮名遣い等で読みづらい所もありますが、ほぼ原文通りに転載いたします。

思へば思ふ程深いのは道別第十五號である先には故四神君夫人の追悼より始めて本會に関係する諸員の帰幽實に五名の多きに達せりとは悲しみの極可惜しみの極であります。本雑誌の脱稿せんとするに當り東京に単独布教を試みたる、初代白神先生の直信金光教西久保教會長御園八重子刀自帰幽せりと聞き敢て追悼の辞を述べんとす。

刀自は天性潔白なる人丈けあって何事でも直言直行の婦人であった爲めに社會に誤解を招く事も屡々あった實に正淨潔白なる精神を有する人であった。
刀自は田中庄吉と云ふものの妻であった。田中氏は初代白神先生の時に脱瘡の御蔭を頂き、全快して其難有さに熱心の度は日々に加はり、商買をも止めて京都に布教を始めたのであります。然し此時分はまだ金光教が成立して居らぬ時であるから天地教會と云ふ名の許に他の教會に属して金光大神の道を廣めたのであります。
斯くて本教は明治十八年神道金光教會として一教派となったのでありますが、田中氏は依然天地教會の名の許に布教を致して居った、然る所田中氏の慢心から家内中の不和が起き離縁さるるの止むなきに至り刀自は五圓の旅金を貰って東京に上った。
初め蛎殻町に下婢奉行に雇はれて其日を送って居った、時しもあれ其家の唯れかが眼病て難渋致して居られた、大神様に御祈り申して全快を致したのを初め、近隣の一人二人を願はして頂き顕著なる御蔭を頂いたので遂に其家を辭して専心布教に従事する事となし烏森町に住宅を構へ神習教に属したる神道金光教會として日夜布教に従事して居ったのであります。
参詣する人も日々に加はり可成の盛況であった然る所本教直属の畑大場の両師上京せられて布教に従事なされたに就て信者側にては刀自に對し「僞金神」の名の許に一方ならず苦しめられたと刀自は常に此事に及ぶと全身に力を込めて話しを致して居られたのを聞いた。
斯くする事十数年であったが暇を得て明治三十四、五年頃初めて備中大谷なる大教會所に参詣を致した折り餘りの無念さから金光様に御願ひ申上げた處「藪神の許について居っても心さへ眞であればお道は廣まり舛」と仰せ下されたと云ふので聊か慰安する處があったらしい明治三十九年の事である二代白神先生の許に相談に来られた時に細しく説明を受けて解得し、大講義に迄昇級して居ったのを捨て、五十幾才の老眼を以て、本教の講習科に入學し六ヶ月の教育を受け得て権訓導を拝し、金光教西久保教會長を拝命し正式に布教に従事することとなったので「僞金神」の名稱は薄らいで平和圓満なる天地となったのでありますが、刀自の一生は實に憤慨の半世から難有き心の後半世に轉せられたる一世であったと云ふも可であります。
當年六十才嗚呼惜い哉

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