初代関係資料

徳の一滴(ひとしづく)1

道別16号(大正4年4月10日発行)より転載
※旧漢字や旧仮名遣い等で読みづらい所もありますが、ほぼ原文通りに転載いたします。

千葉の若草道子

徳の一滴!!これは私が大正元年師走も暮れ行く時集めたもので、御本人から直接聞いた話で御座います。日頃から女人ながらも、親神様の御教を守り教の子を教へ導びかれた私の慕って居りました東京芝區西久保櫻川町の西久保教会長で御座った御園八重師の一生を綴った物で御座います。これも浄書して載せて頂く積りでしたが本年の三月上旬から突然病篤く醫師は今日明日が六ヶ敷いといふ様な悲しいお身となられ、お案じしながらも乍不及御祈念爲して貰って居りましたが壽命で御座いましたか弥生の貳十貳日の朧夜に櫻の花の散る様に、神様の御膝下へ逝かれました。惜しとも悲しとも今更の様涙に暮れました。初代白神師から教へを聞かれ道の人となり信心の道を辿り専心に道の爲め二代三代に仕へられ東京の最中で布教をなさいました女丈夫は「道別」にも縁深き事と思ひ六十年の一生涯を略記まして共に共に徳の一滴を味はひ心を養ふ料ともし度く紙面を裂いて貰ひました。

漁村にでも行って波の音を聞く爲には半道の道程を運ばねばならぬ片田舎、静かな春を迎へた許りの安政二年一月六日と云ふ日に七八十戸の農村であった千葉県上総国一ツ松荒尾村に父五右衛門母野與との間に生まれた女兒は此徳の一滴の女主人公御園師であった。
此女兒は父母が早く隠居して萬店を開店いたので其方に連れて行かれ、一番の姉が養子を迎えて父母の農業を相続し、長男兄は竹家造酒之助と云うて加賀候の御刀の御用たしを爲て帯刀まで許された人でした。三番目姉と二番目兄とは六歳の聲がかかると直き此世を去って仕舞ひ女兒心に淋しい情けない感で彼女が六歳になった時又父五右衛門は黄泉の客となり一入力落としの悲しみ淋しさを強めたのでした。
悲しみ嘆きの中を母親の手一つで養育られた彼女は美貌様姿殊の外美しく整って居った爲めか生付き心正直であった爲めか其當時加能遠江守(壱萬三千石)の近侍を努めて居った中村織之助と許嫁になりましたが、年の生い行くにつれて親族の者共が許嫁の中村様は都合があるからと云ふて彼女が十三歳の時破談となって仕舞った。(都合と云ふは中村が小禄の爲なりと云ふ)
女ながらも心正直に育った彼女は一段心に良人と定めたものお禄の多寡で然も當方から約束を破るといふのは不服で不服でたまり兼ねて遂に無理を願って母親に頼込みやっと許を受けて少しでも心を慰めんとお江戸へ上ったのは彼女が十四歳の蕾の時でありました。そして濱町の井上河内守(三萬石)の御屋敷へお小間使として行儀作法に孜々と努め大変に可愛がられて居る内に日暮れ年暮れて十八の春を迎えた時嫁入りするからと云うので河内守からお暇を貰って一時上総の故郷へ帰って来ました。同じ上総の高田と云ふ處に江戸商と云ふ人があって其人の世話で大阪の田中庄吉と云ふ當時金物商を営業んで居る人に嫁入きました。
彼女が嫁入って来てから田中家は非常に不幸続きでした。其年の五月一日には田中の父が死亡なり、十七と二十一の二人の妹が同じ年の十二月に肺病で死に不幸が不幸を生んで其年から三年目に彼女も子宮癌を病み五年目まではそれでも良好かったり悪かったりで暮して居たが其五年目の年に醫者に診察して貰ふて子宮癌だと云う事が確められてからは夜晝痛み続き始終下物がして手術して貰ふにも弱衰の爲め駄目なり且手術しても、到底助からぬと云ふ難病に陥入良人は脱疽病とて手足の末端血の循環絶えて次第に腐り行く病気に掛り左足を斬れば好いが不具になるし切らなければ病気が拡がり行く一方となり、何でも不具者にせず全快し様と全手段を採った。(続く)