小学校時報 プロ根性シリーズ「この道 この人」発行年不明
初代教会長・御園先生に関わるお話が掲載されておりましたので、以下に原文のまま転載させていただきます。
東京都港区内某神社名誉宮司
明治天皇崩御の年の夏の或晩、芝虎の門附近に在った、金光教の教会を訪ねた。普段この教会の前を往来して居たのに、何故かその晩は、急に訪ねて見度くなり、立寄った。当時書生の出立は、紺絣の単衣に木綿の袴である。来意を告げると、玄関正面神殿を背にして、上品な老婦人が、机の前に座して居られて「どうぞ」と招ぜられた。私は其の頃、「神」について適切な説明が得られず苦悩して居たので、神前に拝礼してから、臆面も無く意中を洩らしたところ、老婦人は、机の引出しから小冊子数冊を出して「神意とは、日和に非ず早い日が吉日ぞ。世に云ふ見合も、姿・形に非ず心の見合いぞ」と。又曰く「神さんとは、この様なちっぽけな所に在せらるるに非ず、全部に在すぞ」と。この一言で総てが神であると得心した。爾来この婦人教会長・御園八重先生に、何かと教えを受ける様になり、心の師と仰いだ。
歳移り星改まり、終戦後、神道修学に上京する学生の為に、國學院大學より寄宿提供の要請が出された。都内各神社は戦災を蒙り、假社殿・假社務所共に矮小であったが、挙って賛同し、地方の学生を受入れた。而し初の試み故、学校・神社共々不安があったが順調に定着した(現在も続いて居る)。
即ち、家庭教育の行届きたる者、全く礼儀作法を弁えぬ者と、その指導には可成り苦労があったが、常に御園八重先生の「神は総てに」を念頭に置いた。軈て、文字通り寝食を共にした研修の賜か、数年にして、一応神社奉仕者として自信を持ち、帰省又は社会に在って、それぞれ栄誉を担って大成して居ることは、短期間と雖も、指導に携わった者として、無上の悦びとすると共に、未熟な書生時代を懐かしむの情を禁じ得ません。
略歴
明治26年東京生まれ。大正4年、港区内某神社宮司拝命。在職70年。昭和60年名誉宮司拝命。